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第十五回(公財)国際宗教研究所賞・奨励賞
【研究所賞】該当作なし
【奨励賞】 次の2作品
授賞業績
君島彩子『平和祈念信仰における観音像の研究』(博士論文、2019年3月22日受理/総合研究大学院大学)
授賞理由
研究所・奨励賞を受ける本作を先ず、「労作」という言葉によって讃えたい。数多くの文献・資料を渉猟し、国内外の数多くの観音像の前に足を運んで地道に積み重ねられた努力の結晶が本作である。研究への情熱が行間に滲み出る作品であったことを、研究所として高く評価するものである。
本作が焦点を合わせるのは、近代以降に制作された観音像である。それらは堂宇のなかでなく公園等の公共空間に設置され、仏教思想を体現するというより平和という抽象概念を表す、という点を特徴としている。端的にいえば、平和を祈るモニュメントとしての観音像である。
明治以降、国内に新たに導入された「美術」概念の影響を受けて、崇拝の対象ではない観音像が出現することになった。そして日本の大陸への進出とともに観音像が(敵味方を問わず尊ぶ)「怨親平等」思想や「興亜」の思想、そして第二次世界大戦後には「平和」思想と結びついていったことを、本作は明らかにする。
また本作では戦後の三つの造形が着目される。第一は広島市平和記念公園内に建立された「平和乃観音」で、それが原爆以前の地域社会(旧中島本町)の記憶をつなぐ働きを有すると論じられている。第二は長崎市平和公園の観音像である。長崎では「平和祈念像」が良く知られるが、この像が担えなかった仏教的な慰霊の役割のために観音像が求められながら、それゆえに像の存在意義が薄れていると考察されている。第三の糸満市平和祈念公園の「沖縄平和祈念像」は、犠牲者慰霊の観音像として発願されたものの、平和を象徴すると同時に沖縄という地域を強烈に表象する存在へと変化していったと主張される。これら三つの事例により本作は、観音像と公共性との関係を問うているのである。
さらに本作は、「共生運動」という仏教的社会改革運動の高まりのなか、制作された平和観音像を寄贈する活動を通して仏教者たちが結びついていったことを明らかにする。また本作は、太平洋戦争激戦地の島々に建立されたマリア観音にもアプローチして、それが宗教宗派を超越した平和活動へとつながる可能性も検討している。
観音は宗派を問わず、仏教とキリスト教の違いさえも超えて、誰もが祈りうる対象である。その観音像の、近代以降の新たな社会的役割や意義を本作は論じており、これを読む者には新鮮な興奮が与えられるだろう。そして慰霊碑等との関係で論じられてきた日本における慰霊・平和活動の研究に新しい地平を切り拓いた点で、高く評価できるものである。
ただ、膨大な観音像をめぐる本作の議論がどこに向かって収斂していくかが、最後まで十分にわからなかった点は惜しまれる。観音像が素晴らしい媒体である、とする結論だけでは物足りない。そしておそらく著者自身、その結論だけで完結させるつもりはないだろう。著者が今後にどのように研究を発展させていくのか、期待を込めて見守りたい。
(2020年2月22日 (公財)国際宗教研究所賞審査委員会)
授賞業績
丹羽宣子『〈僧侶らしさ〉と〈女性らしさ〉の宗教社会学―日蓮宗女性僧侶の事例から』(晃洋書房、2019年2月)
授賞理由
本書は、2016年に一橋大学大学院社会学研究科に提出した博士論文を加筆修正して単著として出版したものである。序章と終章を含めて全部で9章からなっている。全体として文章は平易でわかりやすく、先行研究の整理、著者の視点や立場も明快である。まず、序章で、本書全体の目的を「伝統的な尼僧像とは異なる女性僧侶たちの活躍」という現象に注目し、「その発生と展開を同時代的文脈とともに記述」することを通じて、「彼女たちの宗教的役割を明らかにする」ことにあると述べている。この問題意識を踏まえて、第1章では2002年に調査が行われた「日蓮宗全女性教師アンケート報告書」の内容を紹介しながら、女性僧侶が「<女性らしさ>を引き受け、<女性ならでは>の活動が志向されるのか、なぜ、そのような回路が必要とされるのか」という問いを引き出している。第2章では、この問いに迫っていくために、調査の具体的な内容とその方法論的視座として採用されたライフストーリー法について解説されている。続いて第3章から5章までは、著者がインタビューした11名の女性僧侶のうち、特に3名のライフヒストリーを取り上げて、「彼女たちの宗教活動や生活世界で問題となっているものを検討」している。第6章、7章では、彼女たちの語りの前提になっている「お坊さんの世界は男社会」の多面性を明らかにし、男性社会と抗いながら、彼女たちが宗教的主体としてどのように<僧侶らしさ>と<女性らしさ>を捉え返しているのかを論じて、終章へとつなげている。
著者は「共感的ディタッチメント」という立場から、ライフストーリー的手法で日常生活における「問題経験」の語りに注目する。そこで取り出されるのは「ポリティクスを争う言説の次元」ではなく、「生活圏の曖昧な領域」に見られる「女性らしさ」と「僧侶らしさ」の緊張関係と論理であり、それらを通じて彼女たちの生きられた生活世界を再構成しようと努めている。つまり、著者が問題とするのは、フェミニズム的視点にみられる「強い言説と主体」ではなく、「宗教活動と日常生活の連続性」の中から見えてくる女性僧侶の生活世界である。著者は日蓮宗の僧侶社会が「男社会」であることを指摘しながらも、それを家父長制や「不平等な権力構造」といった硬直的なフェミニズム的視点から論じるのではなく、そこで生きている女性僧侶の意識の内奥に迫りながら、寺院運営の問題、同性同士のまなざしなど、これまであまり論じられてこなかったいくつもの側面を丁寧に明らかにしている。著者によれば、「僧侶らしさ」と「女性らしさ」は対立概念ではなく、戦略的な概念群であり、「曖昧な主体」こそが主役だとしている。
以上のように、本書はミクロな宗教社会学の手法を使いながら、従来のフェミニズム的視点を踏まえながらも、それに留まらない新たな視点に基づく女性僧侶研究を切り拓こうという意欲に満ちており、国際宗教研究所奨励賞にふさわしい作品であると判断した。
(2020年2月22日 (公財)国際宗教研究所賞審査委員会)